「薬研堀」という伝統的な呼名を持つ東京都中央区東日本橋。その名を今に伝える薬研堀不動院とその周辺の商店街では例年年末12月26~28日の3日間、薬研堀不動尊納めの歳の市・歳末出庫市が催され、多くの参拝者や買い物客で賑わいます。そんな師走も末の風物詩、薬研堀歳の市の寸景でございます。
薬研堀、年の瀬の街に江戸の風
歳の市の夕方、薬研堀不動院の門前にて。高く掲げられた奉納提灯と「やげん堀不動尊」の幟、お囃子に乗る獅子舞。粋な江戸の祭の風情。ちなみに「薬研堀」との通称について。江戸落語の舞台としてお馴染みの地名「薬研堀」、元は堀の形状名で堀底断面がⅤ字形の、丁度薬草等を擂り潰す道具「薬研」に似た形からついた名称で、地名としては全国各地にあるようです。江戸東京の薬研堀は江戸前期・正保年間(1645~48年)に隅田川の水を引き込む形で開削されたのが始まり。正保二年この地に谷野蔵(谷之倉・矢ノ倉とも。元々地名が谷野だったとか八つの倉があったとか諸説あり。現在も界隈にその名を冠した矢ノ庫稲荷神社あり)と称した幕府の米蔵が建てられ米運搬の為の運河が必要だった為でした。ただ造りが簡便なⅤ字堀、後に米蔵が移転し役目を終えると開削から130年程経た江戸中後期には大部分が埋め立てられ町屋化、この頃から地名として薬研堀と呼ばれだしたようです。見世物小屋や飲食の店が立ち並ぶ両国広小路(火除地)と隣接し江戸随一の盛り場として栄え、江戸から東京となった後の明治5年(1872年)には正式に薬研堀町と名がつきました。明治36年(1903年)には一寸だけ残っていた堀も埋められて完全消滅、薬研堀は地名のみとなりました。その地名も戦後昭和22年(1947年)より中央区日本橋薬研堀町となりましたが昭和46年(1971年)に近隣町と合併し現・東日本橋に。堀は面影すらなく正式な地名としても消え、しかし江戸の風情を伝えるような響きのある「薬研堀」の名は今も薬研堀不動院や地元商店街の名に受け継がれているのです。
薬研堀歳の市寸景 其の一
大通りの清杉通りから柳橋通りに入るところ。歳の市の提灯が立ち通りの奥に向かって賑々しく露店が並びます。
薬研堀歳の市寸景 其の二
薬研堀不動院前、お囃子の音に人集り。
薬研堀歳の市寸景 其の三
賑わう門前では笛に鉦太鼓のお囃子が演じられていました。
薬研堀歳の市寸景 其の四
ビルの谷間に響く神楽と舞踊る獅子。
薬研堀歳の市寸景 其の五
路地の獅子舞に人集り。霧か霞か屋台の煙。
薬研堀歳の市寸景 其の六
獅子が人姿に変化。邪気払いの舞、といったところでしょうか。
薬研堀歳の市寸景 其の七
賑わう不動院通りから見えるビルに囲まれた薬研堀不動院、八角屋根の堂宇。
薬研堀不動尊 其の一
江戸三大不動のひとつ、薬研堀不動院。創建は天正19年(1591年)、家康江戸入府の翌年。江戸東京と同じ歴史を歩む寺院。江戸後期の天保年間(1830~43年)後期、本所弥勒寺(現・墨田区立川)内に移転。当時、綱紀粛正・奢侈禁止等統制を強めた天保の改革(天保12年・1841年~天保14年・1843年)は庶民の娯楽までも厳しく制限し、当時庶民文化の発信地でもあった寺社(境内が歌舞伎・寄席等の興行地となることも多かった)にも影響し、両国広小路傍の繁華街の寺院であった薬研堀不動も移転させられてしまった、ということらしいです。それから約50年後の明治25年(1892年)に川崎大師(神奈川県川崎市)東京別院としてようやく当地に戻ってきたとの事。
薬研堀不動尊 其の二
薬研堀不動院、お堂の前に参拝者の列。
薬研堀不動尊 其の三
本堂前より階下。煌々と連なる奉納提灯とはためく赤幟。
薬研堀歳の市の夜
不動院通りから柳橋通りに出る交差点。付近の通りでは歳末大出庫市が催され多くの出店が並びます。隣接する日本橋横山町・日本橋馬喰町界隈は都内屈指の問屋街、この日は衣料品を中心に靴・日用品・小物雑貨等が格安で手に入るとあって(但し、あまり若者向けではない様子、個人的見解)多くの買い物客で賑わっています。
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